10周年物語「この10年を振り替えり山本会長に12月まで連載してもらいます

 白虎会は平成6年の1月に、道場設立を致しました。早いもので、10年目をむかえようとしています。ここで、10年間を振り返って掲載させていただきます。 


 そもそも、なぜ白虎会という名前かと申しますと、白虎というのは中国の伝説の4神にあたります。また、黄色い虎はたくさん生存していますが、白い虎は非常に貴重な生き物のようです。このようにとても貴重な選手を輩出し、一度聞けば忘れられないネーミングを考えました。これは、記載すると怒られるかもしれませんが、私が大の阪神タイガースファンということもあり、虎に対する愛着と、少年期にタイガーマスクを見て感動した世代だったので、この名前に決めました。回りの友人たちからは、自分の名前の一字でもいれたほうが、良いのではという意見もありましたが、後世に一時代でも長く、道場を継承してほしいという願望もあったので、自分を出すのはやめました。


 さて、私は子供のころから、やんちゃで親も手をつけられない子供でした。たまたま幼なじみの友達のお父さんが、明治大学のラグビー部出身で、ラグビースクールの会長をしていたので、その影響でラグビーを始めました。少年にとって、ラグビーは非常に厳しいスポーツでした。そのお父さんが、あるラグビーの試合に連れて行ってくれました。その試合は、同志社高校対伏見工高でした。このお父さんは、伏見工高の当時青年監督であった山口良治監督を賞賛していました。この男は今に日本一になると、行きしなの電車の中で熱く語ってくれました。当時はうるさい大人の話しだと思い、聴く耳を持ちませんでした。さあ、試合がキックオフされました。そのお父さん絶賛の伏見工高は同志社高校の前に完膚なきまでやられていました。たしか60点ぐらい取られていた印象があります。試合が終わり友人のお父さん推薦の伏見工高が大敗したので、他の友人3人ほどで、友人のお父さんを冷やかしました。その当時、私がおじさんの立場ならば、張り倒してたと思うほど、茶化したのを覚えています。それから年月が経ち、その伏見工高は日本一になりました。そのときテレビにかじりついて応援していました。なんやあのおっちゃんの言うてた学校凄いなぁと感心してしまい、それから山口良治監督に関する書物を読むようになりました。いつぞや自分もラグビーの監督をして駄目チームを日本一にしたいという夢ができました。今、白虎会を率いて、山口先生の指導にかなりの影響をうけています。それは、のちほど山口先生と出あった話しを掲載させていただきます。


日本拳法と三人の軟弱後輩との出会い
 
 私の生まれは寝屋川でしたが、中学2年のとき、枚方市に引越しました。中学時代、遠方ということもあり、ラグビーに行く時間もなくなってきました。中学卒業した春休みに、友人の森下賢司からチケットをもらい2人で映画を見に行きました。その映画は、ブルースリーの燃えよドラゴンと死亡遊戯という2本立てリバイバル上映でした。子供の頃、憧れからヌンチャクまで買い、一時はまっていたブルースの映画を何年ぶりに見に行ったのです。森下と私は感動にひたり、是非とも拳法をしようということになりました。しばらくして、森下のお母さんから連絡があり、日本拳法の道場が出来るから入門したらと言われて、ふたつ返事で入門しました。当時拳法といえば、ブルースのことしかなかったわれわれ二人は、入門の前に黒胴着を買ったり、はたまたヌンチャクは死亡遊戯のときにブルースリーが使っていた黄色のヌンチャクを探し歩きました。いよいよ入門し、初稽古のときに、いつヌンチャクできるんだろうか?と森下と疑問に思い稽古の時間が過ぎました。一月後に防具を買うことになりました。森下と二人で防具を買えばヌンチャクができるんだから、早く買って、ヌンチャクやらしてもらおうということになり、防具を買いました。さぁ防具をつけて正座をさせられました。ここまで、ほとんど何も教えてもらってなかったので、何をするのか楽しみでした。すると、当時二段の福井寛さんがやってこられて、森下を呼ぶと防具練習が始まりました。さぁかかって来なさいといわれ、森下はアッチョーと叫びながらかかって行くと、その後サウンドバック状態になっていました。私が最後だったので、それまでに全員がしばかれていました。その後は言うまでもなく私もやられました。稽古が終わり、舌が切れ、血がとまらずに、帰り道で森下と二人でジュースを飲みながら、騙されたと叫びながら家路につきました。結局、ヌンチャクも黒胴着も着れない。残ったのは、当時アルバイトしたお金で買った6万円の防具だけでした。しかし、やめるともったいないので続けることにしました。親はラグビーを勧めていたし、続けると啖呵も切ったことも、背景にありました。


 それから、何ヶ月も過ぎて、奇妙な少年と遭遇することになりました。その少年は、稽古中に私語は慎みなさいと竹刀を持った先生が話しをした後に、必ず私語を目立つようにして、ビンタをされていた。あまりに泣くので、先生が男のくせに泣くなと、またビンタを食らわされ、稽古中ずっと泣いていた。休憩時間には、ポール遊びをするなと言われてもしてしまい、またまたビンタ。またまた泣き止まないのでビンタをされる。こんなことが何ヶ月も続いた。我々の間では、この小学2年生の子供を、ニワトリ少年と呼ぶようになっていた。人の感情を逆撫でするのが得意なこの少年が不気味だった。この少年こそが、現在5段の水木智司だ。彼との運命的な出会いであった。水木智司について、触れてみよう。彼は持ち味の天真爛漫さで、もっとも私を悩ませてくれたり、喜ばしてくれた一人の男だ。水木少年が昇段級のデビュー戦のときのことです。公級受験というのは、一人勝てばよく、対戦相手が一目でわかります。水木はその自分が、対戦しようと思われる相手の体が大きかったのを見て、試合の始まる前に、相手が大きいと泣き出したのです。彼とは8歳のニワトリ坊やの出会いから始まりましたが、いやはや14歳にもなって、立派な青年になりかけている矢先に試合前におお泣きするとは。そのとき私は、水木に辛らつな言葉をかけて試合に挑ませました。結局、試合が始まるまで泣き続けて、試合は惨敗でした。試合後は負けたと泣き続けるので、勝ちたいんか負けたいのかどっちなんやと問うと、勝ちたいと泣きながら話していたのを今でも思い出します。勝負の世界なので、涙は大切なものです。しかし、現在にいたるまで、多くの選手を、昇段級のデビュー戦に送りこんで、試合前に相手が大きいと泣いた人はいませんでした。その帰り道に、車の中であんまり言うと可哀想なので、水木、また頑張れよと声をかけたら、返事が返って来ないので、後ろを振り返ると、いびきをかいて、爆睡していた。本当に変わった男である。


 この水木智司に一番影響を与えたのが、酒辺健一です。彼も9歳の頃からの付き合いですが、水木とはまた違った男でした。酒辺はとにかく練習をサボることのうまい男でした。都合のいい腹痛は日常茶飯事。うずくまっているのに、稽古終了後には一番にポールを持って走り回っていた。水木と違い酒辺は本当に拳法が弱かった。酒辺の家と私の実家が目と鼻の先だったので、酒辺の両親から酒辺が中学生のときに家庭教師を依頼されました。酒辺はまったく勉強ができませんでした。宿題を出してもやらない。稽古も不真面目。ある時、ひとつひらめいた。また、宿題もしない。いや、わざとやっていなかったのだろう。私は酒辺にスクワット1000回をやらした。本人もびっくりしていたがジーパンのままやらした。畳の上に汗が落ちるがやめさせない。なんせ家で私服でスクワットをさせているのだから、やらされている本人はたまらなかったと思う。1000回やり終わった後、お母さんがコーヒーをいれてくれたので、酒辺が取りに階段を下りると、階段からすべり落ちてしまった。幸いなんの怪我もなかつたが、本人もそれから宿題をするようになった。ある日ポケットからタバコが出てきたのでスクワット2000回をやらしたら、やってのけた。その後、二度とタバコは吸わないと約束した次の日、仕事で狭い道を走っていると、横にタバコをくわえた酒辺が歩いていた。わたしが、にらみつけると、タバコが口から滑り落ちた。翌日、練習後3000回スクワットをさせた。その後酒辺は、勉強と拳法を頑張るようになった。特筆すべきは、英語が10点ぐらいしかなかったのに、80点近く点数が上がったことだ。酒辺の拳法スタイルは組み技が得意ですが、その足腰はこのときに作られたのでしょう。昇段級では、先ほど記載しましたが、水木智司と酒辺健一は同級生だったので、ライバル心がありました。水木は泣いていましたが、一方で酒辺健一は一回で合格してしまった。当時を振り返り、あのときほど、酒辺の相手を心の中で応援したことはないと、水木は語ります。水木らしいコメントです。ここから二人のライバル心は火がついたと思われます。ここにもう一人、広津良幸という根暗な少年がいました。彼はとにかく子供の頃から、オッサンくさかった事をおぼえています。広津は特筆すべきは酒癖が悪かった。こうして、この第一章を読んでいただいた人はなんて変わった人ばかりなんだろうと思われるかもしれないが、数々私を助けてくれた男達なんです。この後、よもやこの男達と白虎会を作っていくとは、夢にも思わなかった。


さて、こうして拳法人生を歩んで行くのですが、私の拳法人生で、一番の衝撃的な事件が起こりました。豊中の拳法大会で、団体決勝戦で天道会さんと対戦させていただいたことです。その当時私も試合に出場し、戦いました。結果は5−0の完敗でした。こんなに強いチームを見たことがありませんでした。そして、試合をしているときの相手の顔が余裕だったのが、印象的でした。拳法に対する考えかたを大きく変えて行こうと思いました。目標は口にださなければいけない。それから、天道会さんに勝ちたいと口に出すようになりました。その話しを聞いた人からは、失笑され、馬鹿にされました。水木や酒辺になにか、誇りを持たせたい。見返したい。そんな夢が動きだしました。


次回は、白虎会誕生から、涙の別れを掲載します。ありがとうござ゜いました。


7月1日に掲載予定です。