10周年物語「この10年を振り替えり山本会長に12月まで連載してもらいます」
連載第2回「白虎会誕生と涙の別れ」
天道会さんに惨敗してから月日が流れました。その間に水木智司と酒辺健一が、著しく成長をしていた。社会人大会の個人戦では、水木智司が初段の部で優勝し、翌年は三段の部で優勝した。弱冠19歳のときだった。水木智司は19歳で4段を取った。又、酒辺健一も二段の部で三位になった。彼も18歳のときだった。順風満帆のようだったが、私自身は所属していた団体に納得できずにいた。ここではそのことについて記載しないが、日本拳法を辞めたいと申し出た。すると水木智司や酒辺健一もやめると言い出した。その当時27歳の私は針のむしろでした。せっかく若い子達が頑張っているんで、自分が悪者になればいいと思い白虎会を創設しました。私も27歳のときだった。結婚して2年目のときだったので、妻の真由美からも責任重大なので頑張りなさいと激励された。当時、10人ぐらいの生徒たちが我が家をよく訪れてくれました。なんせ4畳半と6畳しか部屋がなかったので、部屋は冬でも蒸し返していました。水木智司がお菓子を食べると必ず食べかすが大量に落ちていた。また、一度家に来ると中々帰らない生徒達でした。
さて、白虎会創設時のメンバーを紹介しましょう。水木智司と酒辺健一は前回もかなり具体的に説明したので、それ以外にまず現在副会長をしている高橋浩二。彼は小学校の同級生で、彼と谷脇重男という友人と小学校時代3人でよく遊びました。しかし谷脇重男は19歳のとき白血病で他界してしまった。谷脇重男は一人っ子だったので、命日のたびに親御さんの顔をみるのが辛かった。私と違い彼は、同志社大学まで行っていた秀才君だった。高橋浩二とは谷脇重男の命日頃になると電話て話すようになっていました。拳法に入門してよと言うと二つ返事で入門してもらいました。また、軟弱な中学生2人が入門してきました。来週友達を連れてきていいですかと言われたので、期待していると、ふけ顔の中学生が挨拶をしてきた。西村哲男だった。彼はこの日から9年間一度も土曜日の稽古を休まなかった。熱があっても怪我をしていても。それから小学校1年生の高橋尚也という子供が入門してきた。現在長尾谷高校で活躍しているこの少年に、私は一番鉄拳も振るったし一番悩まされた。また、原田勝志が入門してきた。原田勝志は拳法に対する考え方が非常に真面目に見えたが、人の話しを全然聞いていなかった。その他にムードメーカーの松田裕行と辻本文雄の高校の時の同級生が入門してくれた。総勢10名ぐらいの船出だった。
この当時新しい生徒の全員が素人でした。少年が6人ぐらいになったので、どうしたらいいのか悩みが増えました。子供を教えたことがなかったので、10年ほど前に水木智司と酒辺健一を教えていた井上義則さんに電話をしてみた。井上さんは、私が道場をやりだした話しを聞くと、ふたつ返事で指導してくれるようになった。会長が私で、副会長が岩朝律朗、顧問が井上義則さんでスタートしました。ひとりぼっちで運営していたので非常に嬉しかった。道場に井上さんの罵声が響いている。怒られているのは、いつも高橋尚也だった。しばらくしてどんどん入門してきた。小学校前でビラ配りなどをして、半年後には30名ぐらいになっていました。このときに、現在副主将の真鍋裕も入門してきた。おとなしい子供でした。宴会が大の得意ですぐに裸になる片山宏和や吉谷孝治も入門してきた。原田勝志と片山宏和は下品なくらいよく裸になり周囲を笑いの渦にまきこんだ。裸になり下腹部の毛をライターで焼くのが定番でした。その後の臭いがたまらなかった。
半年たったある日、得意先のコマツ製作所の副支店長の千綿さんから、道場設立おめでとうと言われました。せっかくだから発足記念試合でもしたらどうだということで、コマツ製作所の体育館を貸してくれました。ささやかながら有志で試合をしました。峰地喜和さんや森口保さん木村環さん徳永修宗さんも駆けつけていただきました。その後、コマツさんの保養所でささやかながらパーティをさせていただきました。色々な人に助けていただいて非常に感動に浸っていました。そのころ、井上義則さんのお母さんの具合が悪くなり、稽古に来なくなりました。井上さん本人も会社の検診でひっかかってしまったらしく、検査入院を医者から言われていました。私も病院で診てもらったほうがいいですよと話しましたが、お母さんの具合が悪かったということもあり、入院はしませんでした。その後、井上義則さんのお母さんが亡くなりました。お葬式であんなに悲しむ顔の井上義則さんの顔を見るのは初めてでした。その後すぐに井上義則さんも入院しました。お腹を切らなくてはいけないので、皆で千羽鶴を折りました。だいぶ調子がよくなったときに、水木智司、酒辺健一、西村哲男、道場の子供達を連れて見舞いに行きました。井上義則さんは凄く喜んでくれました。とくに一番手のかかった高橋尚也との再会が嬉しかったようでした。その後、井上義則さんも退院して、私も一軒家を手にしました。28歳のときでした。1年目最後の稽古にビデオを撮り、井上義則さんにビデオレターを送りました。早く稽古に来てくたさいと願った。
年が明けて平成7年。この年は阪神大震災があり、オウム事件があったりと暗いニュースが多い年でした。震災後、病院に井上義則さんを見舞いに行きました。げっそりしていて、体は相当悪そうでした。その時も早く道場に稽古に行きたいと言っていました。二月になり見舞いに行くと相当悪い状態になっていました。水木智司と酒辺健一を連れて見舞いに行きました。二人にはこれが最後かもしれないと伝えて病室に入りました。その1週間後、井上義則さんは帰らぬ人となりました。享年48歳。若すぎる死でした。暗く重い通夜が終わり、何人かで、食事に行き夜中二時ぐらいに家に帰りました。家に帰りソファに座ると涙が止まりませんでした。翌日最後の別れの日、棺桶に黒帯を入れました。また一人ぼっちになってしまいました。
この年、白虎会は水木智司、酒辺健一以外に、原田勝志が三段を取り、西村哲男が15歳で二段を取り、高橋浩二が身長185cmを生かした拳法で快進撃を続けました。1年目の不振のうっぷんをはらしていました。白虎会の旗も作りました。旗には捲土重来と書きました。実力のあるものが、一度は負けても力を蓄えて満を持して帰ってくるという意味なのですが、常に負けた後にこの考え方を持ち続けてほしいものです。 我が家にも良い知らせがありました。子供ができたのです。結婚して4年間子供が出来なかったので、やっとのことで待ち遠しかったです。予定日は12月12日でした。10月ぐらいに白虎会の父兄から大会をしましょうと言われてすることになりました。松田裕行の職場の近所に摂津で拳法をやられていた北岡勝彦さんがいました。後輩が拳法の道場をしているとはしらなかったということで、協力していただきました。大会には北岡勝彦さん、長松邦男さん、守口拳連の方々も参加してくれました。橿原高校の香美先生が審判をしてくれました。また、発起会からこの後、白虎会大会に連続出場していただいている大淀高校の森口保さんも参加してくれました。日時は12月3日でした。記念すべき第一回大会は、枚方市立長尾小学校で60名参加していただきました。大会の10日ほど前に、高知県のおじさんから電話がかかってきました。私の母が高知出身で母の兄弟が全員高知にいるので、幼少のときから、従兄弟と会うのが楽しみで、よく高知に行っていました。私は小学校2年生のときに、一人で新幹線に乗り東京に行ったり、小学5年生のときに新幹線で岡山まで行き、フェリーで香川に渡り電車で高知まで一人で行ったりしていましたので、この母の弟のおじさんに可愛がられいました。もっとも一人で行くとたくさんおこずかいを貰えるのもうれしかったからです。おじさんは、娘が二人で男がいなかったので、酔うと必ず家に電話をしてきました。早く私の子供が見たいと長々と酔いながら電話をよくしてきました。さぁ、いよいよ明日は第一回目の大会です。妻も臨月を迎えていますので、その日は早く寝ました。夜中の一時ぐらいに弟から電話がかかってきました。どうしたんやと聞くと、英男おじさんが心不全で亡くなったという電話でした。母に電話を代わってもらい話しを聞くと、おばさんが錯乱状態で電話してくるのでよくわからないと言うのです。私は、安芸病院に電話すると、おじさんはやはり亡くなっていました。変わらなくてもいいのにおばさんが電話口に出てきました。早く高知に来てということを言われました。親戚中で二人が一番仲が良かったので、なおさらです。夜中三時過ぎに実家に帰り、親に事情を話して大会終了後に一人で高知に行くことに決めました。翌日、一睡も出来なかったが第一回大会が行われて、北岡勝彦さんが優勝しました。おじさんが亡くなって9日後に長男の大二郎が生まれました。何か因果なものを感じましたが、自分自身も強くなりました。いつも相談にのってもらっていた二人がいなくなりました。また確実に白虎会が大きく動きだしました。
![]() 第一回白虎会優勝大会 表彰式 3位 酒辺健一 優勝 北岡 勝彦選手 準優勝 森口 保選手 |
次回は、ついに私の運命を変えた道場との決勝戦での戦いです。8月5日掲載です
連載第1回「日本拳法と三人の軟弱後輩との出会い」